2006年 10月 17日
006 怪帝ナポレオン三世 |

怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史
鹿島茂
講談社 2004年11月
2800円
おおかたの日本人にとって、ナポレオン三世という人物は、さしてお馴染みとはいえないと思う。まあ少なくても、ボクにとってはそうであった。
しかし、知っている人にも知らない人にも、この本は抜群に面白いはずだ。
練達の書き手を得れば、歴史はかくも面白くなるという、よい例である。
さて、多少ともフランス近代史をかじった人にとって、ナポレオン三世のイメージはあまりよいものではない。
曰く。
ナポレオンの輝かしい栄光をなぞろうとした、凡庸な甥っ子。
陰謀とクー・デタと、運のよさだけで権力を握った男。
ビスマルクの策略にまんまとだまされた、アホで間抜けな皇帝。
生涯をセックスにとりつかれた、淫蕩皇帝。
これまで、マイナス面ばかりが強調されすぎた皇帝だ。だが、そう簡単にレッテルを貼るわけにはいかない、と鹿島さんはいう。
プラス面──とりわけフランスの近代化への貢献を評価せずして、この皇帝を語るわけにはいかない。
ナポレオン三世がいなかったら、いまの美しいパリがあったかどうか。
それに彼は、労働者の貧困に心を痛めた、当時としてはまことに珍しい皇帝であったのだ。
では以下、順を追って、ナポレオン三世誕生までのいきさつを追ってみることにしよう。
◆1808年4月20日 ルイ・ナポレオン誕生。
母はナポレオン最初の妻ジョセフィーヌの娘、オルスタン・ド・ボーアルネ。
父はナポレオンの弟、オランダ王ボナパルト。
これは少々ややこしい関係である。つまりルイから見て、ナポレオンは父方の叔父であると同時に、母方の義理の祖父ということになるからだ。
しかし、いずれにせよ血筋としては申し分ない、サラブレッドである。
◆放浪の少年時代。
世が世であれば、何不自由ないプリンスであったはずだが、むろんすでにナポレオンは没落している。ルイは、母オルタンスに従ってヨーロッパ各地を転々とする。亡命生活だ。
不安定な旅の影響もあって、このころのルイは性格的にも無口で内気な少年であった。
◆1833年頃。サンシモン主義と出会う。
ルイ・ナポレオン25歳。自らの進む道について迷っていた青年は、このころサンシモン主義と出会う。
サンシモン主義とは、要するに産業至上主義である。
「人間による人間搾取のかわりに、人間による自然の活用を置く」というものだ。これは、ルイの思想形成に決定的な影響を与えた。もし自分が権力を得た場合に実現すべきユートピアのイメージがはぐくまれたのだ。
◆1835年 生涯の腹心となるペルシニーと出会う。
ペルシニーは超熱烈なナポレオン主義者(ボナパリスト)のジャーナリスト。その共和主義的思想ゆえに軍隊を追われ、政治新聞『クーリエ・フランセ』を創刊していた。
二人は出会った瞬間に、互いを「自分の胴体や手足となる人物」「自分の頭となる人物」と認め合ったのだった。
◆1836年 ストラスブールで最初の蜂起。
いよいよ、ルイ・ナポレオンの政治的活動が始まる。
忠誠を誓った15人ほどの将校とともに決起し、駐屯地を掌握しようとしたが、ものの見事に失敗。ルイ・ナポレオンを含む反乱軍全員がその場で逮捕された。計画があまりにもずさんだったのだ。
しかし政府は、この事件を取るに足らない愚劣な一揆として処理することにした。ルイへの処分も、アメリカへの国外追放という寛容なものだった。
◆1840年 ブローニュで再度兵をあげる。
英仏海峡の港町ブローニュにボートで上陸したのは、ルイ・ナポレオンと54名の部下だった。一行はブローニュの第42歩兵連隊で檄文を読み上げ、決起を呼びかける。しかし、ルイがいくら演説を行っても応じるものは、だれひとりとしてなかった。
計画は、前回と同じように失敗。反省はまったく活かされなかった。さすがに今回は温情はなく、ルイはアム監獄へ送られ、幽閉の身となる。
◆1840〜 アム監獄時代。
快適とはいいがたい幽閉生活だったが、ルイにとってプラス面もあった。書籍の取り寄せは自由だったので、ルイはこの監獄で数々の本を読み猛勉強をする。のちにルイ自身がこの時代を回顧して「わがアム大学」と呼んでいるほどだ。
なかでもいちばんの成果は、1844年に著作『貧困の根絶』を著したことだった。
◆1846年 アム監獄を脱出。
ルイはかねてから、ひとつの脱獄のプランを温めていた。それは、出るものに対しての警戒は厳重だが、入ってくるものに対してはそれほどではないという盲点をつくものだった。
5月25日、ルイは改修工事に来た出入りの石工になりすまして、まんまとアム監獄を抜け出す。
◆1848年 二月革命が起こる。
ルイは、父の死により莫大な資産を相続し、ロンドンに亡命していた。
このころ、二月革命が起こる。ルイ・フィリップが王座を追われ、フランスは共和国になる。(第二共和制)
選挙が行われ、ルイは立候補もしないのに議員に当選してしまう。こうなると、過去2回の蜂起は無駄ではなかった。成功はしなかったが、ルイ・ナポレオンの名前が、民衆の間にしっかりと記憶されていたのだ。
しかルイはすぐさま辞職してしまう。冷静な判断だった。
◆同年12月、大統領選挙が実施される。
予備選挙で、ルイは積極的な選挙運動を展開したわけではないのに、5つの県で当選を果たす。
しかし挨拶にため議会に登場したルイを見て、人々は失望した。冴えないその風貌が、満場の嘲笑の種になったのだ。
ところがである。決戦投票では、ルイは強力ライバルたちを押さえて、
74.2%の得票を集める。二月革命の主体となった労働者たちが、こぞってルイに投票したためである。ルイは大統領になった。事前には誰もが予想し得ない大穴当選だった。
◆1851年 クーデター成功。
大統領選に圧勝したものの、ルイは議会では四面楚歌だった。
なにしろ新参者である。そのうえルイが唱える「貧困の根絶」というユートピア思想に共感するものは、あまりに少なかった。内閣との確執の末、ルイはクー・デタという手段に出る。
12月2日の朝、パリジャンたちは該当に張り出された共和国大統領の布告ビラに驚かされた。国民議会を解散し、普通選挙を復活するという内容である。
ルイは、民衆の奪われた権利、すなわち縮小された選挙権を取り戻す手段として、やむを得ずクー・デタを起こしたと訴えようとしたのである。
反対派の議員や将軍たちが逮捕され、クー・デタはあっけないほど簡単に成功した。
◆1852年 ルイ、皇帝となる。(第二帝政)
1月元旦。共和国大統領ルイ・ナポレオン・ボナパルトはノートルダム大聖堂に参列し、シブール陛下から祝福を受けた。この日からナポレオン三世が誕生したのだ。
フランス国民は、ルイ・ナポレオンがどんな人物かは知らなかった。しかし、とにかくこれで混乱の時代は終わった。一国も早く秩序ある生活を、と望んだのだった。
さあ、これからがいよいよナポレオン三世の面目躍如たる場面である。
クー・デタが成功し、皇帝の椅子に座ったとき、彼の胸にはひとつの思いが渦巻いていた。
「これでやっと、パリの大改造に着手できる」
その実行者として指名されたのは、ジロンド県知事からセーヌ県知事にすえられたオスマンだった。
皇帝はオスマンに一枚の地図を示し、こういった。
「この地図のとおりに、ただちに、パリの大改造にとりかかっていただきたい」
その地図には、皇帝自身の手で、工事の緊急度に応じて、青、赤、黄、緑の四色に、建設すべき道路や公共施設が塗り分けられていた。
当時のパリは、通りはどこも狭く、袋小路になっていて、空気が澱んでいた。トイレは何十世帯が住む建物の中庭に一カ所しかなかったから、人々はオマルで用を足し、夜中に窓から下に内容物を投げ捨てる。
街路はほとんど共同便所と化し、鼻も曲がるような悪臭と湿気が街全体を覆っていた。
こんなパリの街並みに新しい秩序をもたらそうというのだから、無人の地に一から都市をつくるブラジリアのような例とはわけが違う。この荒療治に、オスマンほどの適任者はいなかった。
ブルドーザーのような馬力を持ちながら、なおかつ利口で、抜け目なく、権謀術数に富んだこの人物のもと、パリはまるで奇跡のような変貌を遂げていく。
ナポレオン三世、その生涯の側近にして内務大臣たるペルシニー、そしてオスマン。この強力なトリオがなしとげたパリ大改造の、主たるものをあげてみよう。
◆巨大地下上下水管の建設
パリの人口はどんどん増加するのに、パリには良い水が不足していた。オスマンは、気鋭の水道技師ベルグランに命じ、パリからは150キロも離れたヴァンヌ川とデュイス川から水を取ることにした。もっと近くにはセーヌ川があったが、将来を考えて安易な策をとらなかったのだ。
さらにベルグランは、地下に下水溝を設置し、その中に上下水道管を通すというアイデアを打ち出した。地下の下水溝は馬車が通れるほど巨大なもので、氾濫をも防止できるという画期的なものになった。
現在のパリもまだ、150年前のこの導管をそのまま使用しつづけている。
◆ブローニュの森、シャンゼリゼの並木道などの造成
ベルグランがパリの「下部構造」をつくったとすれば、森や公園、遊歩道、並木道といった都市の「上部構造」を担当したのが、アドルフ・アルファンである。
アルファンはすばらしい造園工事で、ブローニュの森を完成させる。続いて、シャンゼリゼの並木道、モンソー公園、ビュット・ショーモン公園など、今日でもパリジャンの憩いの場になっている緑地帯を次々に形にしていった。世界一の美都パリはこうして生まれたのである。
◆エトワール広場の建設
ナポレオン一世が第一帝政の時代に建設に着手した凱旋門はもうすでにそこにあったが、まわりには民家もなく、殺風景な一建築物にすぎなかった。
オスマンはこの場所を、改造後のパリの象徴となるような壮大な広場にしようと心に決めた。
広場の直径は240メートル。ここから12本の大通りが放射状に放たれ、それぞれが他の大通りや広場と接続された。また近辺の建物はすべて新築とし、見栄えをよくするため、その建築様式もそろえられた。

こうしてみると、今日のパリの美しさは、この時代にほとんどその基礎が築かれたことがわかる。
一方、今では見ることはできないが、ナポレオン三世が情熱を傾けたもう一つのもの。それは「貧困の根絶」にむけての、さまざまな施設や仕組みだった。
1852年に建設された「ナポレオン共同住宅」は、清潔で換気の行き届いた200世帯用の低家賃住宅からなる、巨大な団地だった。ここには、母親が働いているあいだ子どもを預かる託児室まで備わっていた。
また翌年には、ナポレオン三世は自らの内帑金40万フランを提供して、パリの最貧地区にモデル浴場・洗濯場を建設した。
さらに1860年には、労働者用リハビリ施設も開設する。
ナポレオン三世は、労働者にとって工場や建設現場は戦場に等しいのだから、そこで負傷を負った人々には、国家がその生活を保障する施設を建設すべきだと考えたのだ。
青年期に抱いた理想を次々と実現していったナポレオン三世は、こうしてみると、堂々たる善政君主といえるだろう。
だが、どんな英雄にも欠点はある。また、往々にしてその末路はよくない。
ナポレオン三世の場合は、その並はずれた好色さが、彼自身を苦しめた。チュイルリ宮殿の対岸のバック街に一軒のアパルトマンを借りた皇帝は、夜になると、お忍びで愛人に会いに出かけた。そこで彼を待っていたのは、女優、踊り子、娼婦、ただのブルジョワ娘。要するに「女であれば、誰でもいい」ほどに、セックスに取りつかれてしまっていたのだ。
ナポレオン三世とその第二帝政崩壊の、直接の原因は戦争である。
プロシャの宰相ビスマルクが挑発した、ナポレオン三世にとってはいささかも望んではいない戦争だった。
荒淫がたたり、ついには慢性の膀胱炎に悩まされていた皇帝だったが、戦争を遂行する以上、自らが総指揮をとるほかはなかった。
1870年の7月28日、皇帝はウージェニ皇妃と別れの挨拶を交わし、パリを離れた。
そして戦場でナポレオン三世を待っていたのは、死にもまさる屈辱だった。
セダンでの戦いで万策尽きた皇帝は、ついに白旗をあげ自ら捕虜となることを決意したのだった。
このニュースに接したウージェニ皇妃は、「なんで、自殺しなかったのよ」と叫んだといわれるが、おそらくこのときの結果が、後世の評価に大きく影響しているのだろう。
あの戦争がなかったら、そしてあの好色ぶりがもう少し人並みのものであったなら、ナポレオン三世は名皇帝とたたえられたかもしれない。
「評価されざる偉大な皇帝」
鹿島さんは、ナポレオン三世にこの言葉をおくっている。
by kaitekido | 2006-10-17 23:20



